Opus.92

LPレコードの感想など。

ラファエル・クーベリック指揮ボストン交響楽団 ベートーベン交響曲第5番ハ長調作品67

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クーベリックのこのシリーズでアメリカのオーケストラはこのボストンと8番のクリーブランド管弦楽団の2曲。やはりシカゴ交響楽団は入っていないところが、興味深い。1973年の録音。

クーベリックとボストンと言えば、有名なスメタナの連作交響詩「我が祖国」の録音がある。この録音が1971年であったことを考えるとクーベリックとボストンの良好な関係が続いてたことを伺い知ることができる。

演奏は、充分にクーベリックの表現を理解尽くしたボストン響のなんとも滋味深い音楽に心を奪われる。弦楽器の織りなす優しく暖かい音色の変化、充分に空間を取ってから語り始める語調など、魅力が尽きることは無い。やはり2楽章が秀逸である。

何度も繰り返し聴いた曲であるだけに、クーベリックの音楽表現の特徴を際だった形で印象に入れることができる。それは、「時間」の使い方では無いかと思う。決して急がないし、慌てずに、オーケストラが求める音の響きを充分に出せるまで待つ(時間としてはわずか0.1秒とかいった時間ではあるが)鋭敏な感覚と言える。また、その感覚に非常に敏感に反応しているのがボストン響とも言え、アメリカ的なオケの片鱗と感じる。 

ラファエル・クーベリック指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 ベートーベン交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

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1971年10月の録音。つまり、クーベリックのこの一連のベートーベン交響曲録音はベルリンから始まったことになる。そしてカラヤンが君臨していたベルリンフィルとの演奏に英雄を選んだのはDGG社としては野心的な選択だったような気がする。

第1楽章は、実は最初聴いた時はクーベリックとベルリンフィルのテンポ感の違いか、それを聴く私のテンポ感の違いなのかしっくりこなかったが、2回目に聴いた時は落ち着いて耳に入ってくるようになった。恐らくクーベリックの繊細で詳細を静かに丁寧に聴かせる手法を、ベルリンフィルやこの曲に対する私の先入観が邪魔をしたのかも知れない。それだけ、曲へのアプローチがクーベリック独特なものということも言える。一つ一つのフレーズを充分な時間を取って演奏を進めるクーベリックの棒の動きをじっくりと感じながら滑らかな音色で対応するベルリンフィルの演奏レベルの高さには改めて驚かされる。

第2楽章に入るとそのクーベリック的な深淵で人間的な暖かみを音色に練り込む芸術的な世界が大きく目の前に広がり、そこから見える景色は神々しくもある。一音一音、楽器毎にクーベリックが彼自身の言葉と響きを与えており、それを浴びる様に聴くことができる喜びはアナログレコードの醍醐味とも言える。

その感動は第3楽章に入っても続く。全体的に軽く明るい空気感の中、音の発見者といったクーベリックに紹介されるフレーズは快適である。

第4楽章も全体的には静かに、というか静かに聴いてしまうのだが、弾んだ音楽で満たされる。フォルテシモの入り方も実に丁寧である。

ラファエル・クーベリック指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 ベートーベン交響曲第2番ニ長調作品36

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1974年、コンセルトヘボウでの録音。音楽全体に流れる上質な気品を感じる。クーベリックの意図を的確に掴んで空間にそっと音を置いていく好意的な演奏は、録音セッションが非常に上手くいったことを思わせる。どの楽器群も全体のバランスや音楽の美しさの表現に集中力を持った演奏を聴かせる。ちょっとした音楽の流れの変化や、柔らかい表現などクーベリックらしさが満載となっており、風格と格式に満ちた名演奏と言える。

この交響曲の録音ではなかなか納得できるものを探すのは難しい。他のベートーベンの交響曲と比較すると、恐らく「何を求めるのか?」が指揮者、演奏者、聴き手によって幅が広すぎるため、結果全体の輪郭が見えにくくなってしまうのかもしれない。確かに、「絶対の名盤(まあ、そいいったものは本当は無いのだろうが)」というものがこの曲には存在しないように思える。

そういう意味で、この演奏も好みが別れると思えるが、私にはこのクーベリックすぎる演奏が自然と耳に入ってくるので、非常に嬉しく感じる。

ラファエル・クーベリック指揮イスラエルフィルハーモニー管弦楽団 ベートーベン交響曲第4番変ロ長調作品60

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B面にひっくり返して第4番が始まったとたん、このクーベリックによる異なるオーケストラでのベートーベン交響曲全集録音の企画が、見事に成功しているというのが判る。クーベリック自身のアプローチの基本は同じだが、それを感じ取って演奏するオーケストラ側から出てくる音楽は全く個性が異なる。

イスラエルフィルの丸みがあり厚い弦楽の響きと、非常に積極的な音楽表現は、第1楽章の導入部から主題が出てくるところにかけて堪能することができる。ただ、多彩なクーベリックの意志に忠実にオーケストラが追随しているかというと少し疑問でもあり、このオーケストラのサウンドが持つ魅力がクーベリックの音楽の方向性と必ずしもベストマッチではないことも感じさせる。3楽章はまだ上手くいっている方だが、4楽章の抑揚を強調した表現は、本当にクーベリックがやりたかったことなのかどうかと疑ってしまう。そのため作りすぎ感が出て聴き手が集中力を上手く保てない。ただ、これはクーベリックに限らず、イスラエルフィルの録音に共通する印象でもあり、実際、YOU TUBEで現在のイスラエルフィルを聴くことがあるがやはり同様な印象をもつことが多い。

1975年、ミュンヘン・ヘラクレスザールでの録音。つまり、テルアビブまでクーベリックが出掛けた訳では無いということになる。この企画でクーベリックが各オーケストラの本拠地で指揮をしなかったのは、この録音のみであるが、丁度レバノン内戦が始まった時期でもあり、物理的に困難な背景があったのであろう。

ラファエル・クーベリック指揮ロンドン交響楽団 ベートーベン交響曲第1番ハ長調作品21

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1971年から75年にかけてクーベリックがベートーベン交響曲全曲を全て違うオーケストラで録音した伝説の企画もの。DGG社がこの企画に至った経緯はいろいろと言われているが、やはりカラヤンが存在する中、「配慮した」という説が一番説得力がある。ただ、そうは言ってもこの権利関係が錯綜する現在の時代に、一人の指揮者が世界で超一流のオーケストラ相手にこういった企画をすることはもはやコストがかかりすぎて不可能であろう。その時代にDGG社が持っていた力は大きかったことが推察される。

ともあれ、こうして全集を手にすると、曲毎にオーケストラが違うというのはワクワクする。箱のカタログ番号は2740 155、イギリスプレス。8枚組で、ゆったりと収録している。1枚目で交響曲第1番がA面と第4番がB面にカップリングされている以外は、全て一曲一枚ということになる。

交響曲第1番はロンドン交響楽団。イントロクイズでは無いが、冒頭の響きを聴いただけでロンドンのオーケストラというのが判る。1974年にロンドン北西部にあるブレント・タウンホールで収録。サッカーで有名なウェンブリースタジアムの近くにある。

クーベリックの丁寧な音作りとロンドン交響楽団の繊細な感覚が堂々とした空間を持つ音楽を構成している。クーベリックといえばバイオリンの両翼配置だが、第4楽章の冒頭などでその効果も良く出ている。特に静寂から始まる第2楽章の冒頭は美しく、技巧的である。これでもかというアンサンブルの水準の高さを聴かせる木管楽器群も、ロンドン交響楽団らしいといえる。クーベリックとロンドン交響楽団というのは、レコードマニアには垂涎の的となるバッハとモーツアルトをヴァイオリンのジョコンダ・デ・ヴィートと録音したもの(ASD429)があるが、ステレオ時代になってからのロンドンでの録音活動が意外と少ない(ロンドンで、さあこれからという時にビーチャムにコベントガーデンを追い出されたということもある。まあ、ロンドンというのはそういう街ではあるが。ただ、その後、バイエルンを振ることになり黄金期を迎える。)という印象があるので、この録音のたっぷりとした音楽水準の高さを聴くにつれ少し残念な気もする。

バーンシュタイン指揮ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」

悲愴は、このボックスを手に入れて最初に聴いたので、1番から順番に聴いている今回が2回目となる。1回目はそうではなかったが、ここまで続けて聴くと、レニーの楽しみ方が堂に入ってくる。1楽章の冒頭から既に、悲しみに震える心の響きとそれに向き合う強さが激しく交錯し、それを巧みに表現するNYPOの優しく落ち着いた弦楽器の響きに支えられて聴き手を惹き付ける。次々と押し寄せるチャイコフスキーの心の波の重なりを圧倒的な表現力で積み上げ、感動的に1楽章を終える。

予想通り早めのテンポで始まる2楽章。ここでも中低音の輝きは増し、4分の5拍子を精巧に、かつ物語を語りながら組み立てた音楽は聴き手に絶えることの無い発見の機会を与えてくれる。アクセントの印象などは実に上品であり飽きることは無い。最後は、弦を簡素に響かせて終わる。

非常に細かい図柄を丹念に組み合わせたような3楽章。激しく押し寄せる音の圧力に普段は冷静なタンノイもご機嫌。

4楽章は、まるで厚い布地を強い意志で一気に切り裂くような弦合奏で始まる。レニーが握った拳が短く鋭く振られたのが目に浮かぶ。絶妙なホルンに導かれて弦楽の合奏が頂点に向かう様は美しく荘厳でもある。やがて、冒頭で聴いた力は途中、ティンパニや金管低音部を伴い、強弱を繰り返しながらも次第に衰えていき、タムタムの合図とともに、受け入れざるを得ない平穏さに身を委ねて行く。ストーリーテラーとしてのレニーの巧さとその世界観の深さと迫力を感じざるを得ない。

バーンシュタイン指揮ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調作品64

同ボックスのチャイ4の興奮がさまやらずそのまま5番を聴いている。冒頭のクラリネットのソロの暗く深い陰影から始まる。全体的に縦横無尽にテンポを操りながらも低音弦楽器の厚さを印象的に使いながら、重苦しいくも暖かい雰囲気を見事に作り上げている。2楽章の冒頭はまさに遠くまで見通せる大海を眺めているような壮大なスケールである。レニーを聴くといつも感じるが、いろいろな情景を聴き手に感じさせる絶妙な距離感を持たせてくれる。彼のオープンな音楽的性格によるものか、語り手として語りすぎるぐらいのサービス精神の表れか?

4楽章に入ると、各楽器の音の置き方がより繊細なものとなり、精神が研ぎ澄まされてくるため、聴く側はその音が置かる瞬間瞬間に引き込まれる。NYPOも、レニーの次の指示がどうであるかは充分に理解しており、演奏に余裕と積極性を感じさせる。

演奏会でこんな演奏を聴かされると、聴衆はたまらないだろう。