Opus.92

LPレコードの感想など。

ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団 ベートーベン交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」

いよいよこの全集も最後。1975年1月のミュンヘンでの録音。手兵バイエルン放響で第9をあてたDGG社、クーベリックの期待度はもちろん、聴き手も期待度が大きいのだが、どうも録音条件が上手く設定されておらず、バランスが悪い。マイクの配置に問題があるのだろうか、各楽器群の聞こえ方にまとまりを欠き集中力を散漫にさせてしまう。

演奏は、全体を纏めて機敏さを出すために敢えて重厚さよりも機能的なものを要求しているような感じでもある。何かCD時代の音の創り方みたいに聞こえる。

スタンダードで見本の様な演奏と言った世評もあるようだが、クーベリックの演奏はそもそもスタンダードでは無く、色濃い個性を持ったものであるはずだが。

ふむ、こちらの聴き方が悪いのか。また、後日、再度聴いてみようと思う。

ラファエル・クーベリック指揮クリーブランド管弦楽団 ベートーベン交響曲第8番ヘ長調作品93

1975年3月にクリーブランドにて録音。この全集を通して感じるクーベリックの時間の使い方が、この録音ではガラッと変わっており非常に面白い。ベートーベン8番へのイメージがそういった軽快で明るいものであり、クーベリックの変幻自在なところが感じ取れる。特にティンパニのインパクトが強く、マレットも堅いものを使っており、マイク配置もそれを考慮されたのかもしれないが、オケ全体に室内合奏団による演奏のような機敏さを持った雰囲気でもある。やはりベートーベン8番といえば、イッセルシュテット、ウィーンフィルの録音を思い出すが、傾向としては似たようなものがある。ウィーンフィルのような欧州的な気品や華やかさではなく、あくまでアメリカ的な機能性を帯びているが、それはそれで楽しめる。パリ管との6番といい、この録音といい、クーベリックの人柄、とくにオーケストラとの対峙の仕方が色濃く出ている。

クリーブランド管弦楽団の1975年といえばセルが去り、マゼールに既に移っており、引き続き素晴らしいサウンドを披露していた時代。客演となる65歳のクーベリックにとっても、一世代下の指揮者が主席となる同楽団を時代の変化を感じながら指揮ができる意義深い訪問となったのではないだろうか。1973年にはスイス国籍を取得しており、老後?の活動に差し掛かったはずのクーベリックだが、1989年の民主化で再びチェコに戻ることなど想像さえしていなかったであろう。

 

 

ラファエル・クーベリック指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ベートーベン交響曲第7番イ長調作品92

1974年9月、ウィーンでの録音。クーベリックが1970年にミュンヘンで録音したバイエルン放送交響楽団の同曲の録音を愛聴する私にとってみれば、非常に興味深い。クーベリックの音楽解釈が大きく異なるとは思えないが、それを受け取る側のオーケストラのスタンスの違いが如実に出ていると思える。

マーラーとの全曲録音が進んでいたバイエルン放響とはお互いに知り尽くされた仲であり演奏に一層の積極性が感じられて、それが集中力感や、ぞくぞくとするようなテンポ感が出ており4楽章の表現力は全くもって圧倒的である。一方のウィーンフィル盤は、アプローチが全く異なり、クーベリックの表現を丹念に解釈して確実に表現する職人感が出ている。音の響きはウィーンフィルそのものであり、堂々としてかつ繊細であり2楽章の冒頭からの弦楽器の重なり方は実に静香で美しくしなやかである。音楽の聴かせ方が違うという感じだ。ただ、ウィーンフィル側にちょっとした過剰な緊張感があるのは確かで、それが演奏スタイルにプラスアルファの影響をしているような気がする。

あまりにもバイエルン放響との演奏が素晴らしいだけに、いろいろとDGG社との契約を含めたいろいろとした詮索も、LP時代の背景を探る上で面白いが、結果論的であり、実際の録音現場では、少なくともクーベリック自身には、そこまでに意識があったとは感じられない。

ラファエル・クーベリック指揮パリ管弦楽団 ベートーベン交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」

1番から聴いてきたこのボックスも6番まで来ると後半に入ってクーベリックの世界にどっぷりとなってくる。

1973年1月パリでの録音。サウンドとして新鮮で、充分な響きを印象的に残す。細部の構造まできっちりと独特の時間軸で表現する音楽を、聴く方はじっくりと味わうことができる名演といえる。実は私はあまり田園を聴くのは得意では無い。表題音楽として魅力的だが、それほどオケによって私が望むほどの特徴というか違いがくっきりと出ないような気がするが、さすがにこの演奏はそういった面でも味わい深い。レコード時代としては珍しいパリ管弦楽による色彩豊かなベートーベン交響曲の録音ということもあるが、サル・ワグラムのなんとも香ばしい実りのある響きが非常に心地よく嬉しい。

ラファエル・クーベリック指揮ボストン交響楽団 ベートーベン交響曲第5番ハ長調作品67

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クーベリックのこのシリーズでアメリカのオーケストラはこのボストンと8番のクリーブランド管弦楽団の2曲。やはりシカゴ交響楽団は入っていないところが、興味深い。1973年の録音。

クーベリックとボストンと言えば、有名なスメタナの連作交響詩「我が祖国」の録音がある。この録音が1971年であったことを考えるとクーベリックとボストンの良好な関係が続いてたことを伺い知ることができる。

演奏は、充分にクーベリックの表現を理解尽くしたボストン響のなんとも滋味深い音楽に心を奪われる。弦楽器の織りなす優しく暖かい音色の変化、充分に空間を取ってから語り始める語調など、魅力が尽きることは無い。やはり2楽章が秀逸である。

何度も繰り返し聴いた曲であるだけに、クーベリックの音楽表現の特徴を際だった形で印象に入れることができる。それは、「時間」の使い方では無いかと思う。決して急がないし、慌てずに、オーケストラが求める音の響きを充分に出せるまで待つ(時間としてはわずか0.1秒とかいった時間ではあるが)鋭敏な感覚と言える。また、その感覚に非常に敏感に反応しているのがボストン響とも言え、アメリカ的なオケの片鱗と感じる。 

ラファエル・クーベリック指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 ベートーベン交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

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1971年10月の録音。つまり、クーベリックのこの一連のベートーベン交響曲録音はベルリンから始まったことになる。そしてカラヤンが君臨していたベルリンフィルとの演奏に英雄を選んだのはDGG社としては野心的な選択だったような気がする。

第1楽章は、実は最初聴いた時はクーベリックとベルリンフィルのテンポ感の違いか、それを聴く私のテンポ感の違いなのかしっくりこなかったが、2回目に聴いた時は落ち着いて耳に入ってくるようになった。恐らくクーベリックの繊細で詳細を静かに丁寧に聴かせる手法を、ベルリンフィルやこの曲に対する私の先入観が邪魔をしたのかも知れない。それだけ、曲へのアプローチがクーベリック独特なものということも言える。一つ一つのフレーズを充分な時間を取って演奏を進めるクーベリックの棒の動きをじっくりと感じながら滑らかな音色で対応するベルリンフィルの演奏レベルの高さには改めて驚かされる。

第2楽章に入るとそのクーベリック的な深淵で人間的な暖かみを音色に練り込む芸術的な世界が大きく目の前に広がり、そこから見える景色は神々しくもある。一音一音、楽器毎にクーベリックが彼自身の言葉と響きを与えており、それを浴びる様に聴くことができる喜びはアナログレコードの醍醐味とも言える。

その感動は第3楽章に入っても続く。全体的に軽く明るい空気感の中、音の発見者といったクーベリックに紹介されるフレーズは快適である。

第4楽章も全体的には静かに、というか静かに聴いてしまうのだが、弾んだ音楽で満たされる。フォルテシモの入り方も実に丁寧である。

ラファエル・クーベリック指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 ベートーベン交響曲第2番ニ長調作品36

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1974年、コンセルトヘボウでの録音。音楽全体に流れる上質な気品を感じる。クーベリックの意図を的確に掴んで空間にそっと音を置いていく好意的な演奏は、録音セッションが非常に上手くいったことを思わせる。どの楽器群も全体のバランスや音楽の美しさの表現に集中力を持った演奏を聴かせる。ちょっとした音楽の流れの変化や、柔らかい表現などクーベリックらしさが満載となっており、風格と格式に満ちた名演奏と言える。

この交響曲の録音ではなかなか納得できるものを探すのは難しい。他のベートーベンの交響曲と比較すると、恐らく「何を求めるのか?」が指揮者、演奏者、聴き手によって幅が広すぎるため、結果全体の輪郭が見えにくくなってしまうのかもしれない。確かに、「絶対の名盤(まあ、そいいったものは本当は無いのだろうが)」というものがこの曲には存在しないように思える。

そういう意味で、この演奏も好みが別れると思えるが、私にはこのクーベリックすぎる演奏が自然と耳に入ってくるので、非常に嬉しく感じる。